今日から鳥取に出張です。京都から姫路に出て、倉吉に入ります。自宅からだと、移動にザッと3時間半位かかります。そんな移動時は、携帯を眺めながら鑑定の仕事やYouTube、NetflixやAmazonプライム等の映画を鑑賞したりして、それなりに時間を費やす術は有るのですが、ペットロスのせいか、、どうしてもセンチメンタルな気分になってしまいます。もっと、こうしてあげたら良かったと、、つい後悔の想いが蘇って来るのです。普段の私は、人に人間の生き死について語っておきながら、本人はというと未だに悲しみを背負っているのです。こんな情けない僧侶で良いのか、、そんな風に考えていると、ふと、、お釈迦様なら、どんな心境になられただろう、、と想像しました。お釈迦様は、どの様な苦しみや悲しみを背負ったとしても、弟子の前では冷静に平静を保たれていた様に思います。お釈迦様には十大弟子と言う素晴らしいお弟子さんがいらっしゃいました。その中でも特に舎利弗や目連は、お経の中にも度々出てこられ、お釈迦様の右腕・左腕と言われた方々でした。しかしながらお二人は、お釈迦様より先に亡くなられています。教団創設時から苦楽を共にした愛弟子、舎利弗は病死で亡くなり、目連に至っては敵対する宗教団体の人間から撲殺されたのです。そのショキングな出来事に、さぞ悲しまれた事の様に思いますが、お釈迦様は教団が混乱を招かぬ様、目連の死は自ら死を予言していたと言って、彼の死を無駄にしてはならない事を説かれました。私なら抗議の一つや二つ、、イヤッ、もっとやっていたかもしれません。お釈迦様は現状だけを見ておられず、この先の展開迄予測されていたのです。お釈迦様は誰よりも人を愛し、慈しみを持って接して来られました。その様な方だからこそ、悲しみをチカラに変えて来られた様に思います。そして、沢山の人の悩みを解決し、新たな希望を与えて来たのです。そんな、お釈迦様の素晴らしい優しさに、私は今日も元気付けられています。
