師匠の仰る仏知見を悟る事が
この世の生きる目的であり意味であると
言われても、、
私の様な凡夫には、、
ハイ分かりましたと、その時は、
本心から答える事は出来ませんでした。
それが未熟者と言われても仕方ないと
思っていたのです。
人間は、生きながらにして様々な感情を
持ち合わせており、自身の感情を
操作する事は困難であると思います。
例えば、自分の愛する人が殺害され
犯人を殺してやりたいと思う感情は
罪になるのでしょうか?
また、毎日毎日同じ事を繰り返し、
ふと気付いた時には、定年を迎え
妻や夫に先立たれ、自分も老体にムチ打ち
死を待つ人生に意味を感じるのか?
そこには、苦しみしかありません。
生きる事が苦しみであり、意味の無い人生を
生きているだけの様な気がします。
生活が楽になる為に相手を欺いたり
子供の為と言いつつ、犯罪に手に染めたり
暴力をふるう父親から母親を守る為に
父親を殺害したり、、
介護疲れで両親を殺害したり、、
罪を犯した人は、この先救われて
生きる意味や目的を悟る事が
出来るのでしょうか、、。
お釈迦様は、この苦しみの世界で
大いに悩み苦しみ、そして6年後に
悟られました。
お釈迦様が自ら悟られた時
自分はこのまま死んでも構わないと
思われたのではないでしょうか。
何故なら、生涯の目的を達成され
この苦しみの世界には
何ら未練を感じない状態だったからです。
生きる事は、他を犠牲にして生きなければ
なりません。
魂と肉体は完全に離脱し
むしろ、悟りの世界という快楽の世界に
入られていたと思います。
厳しい修行によって、肉体は限界に達し
あと数日このまま続けられていたら絶命され
ていた事でしょう。
その時でした。
天界から梵天が降りてきて
「どうかお釈迦様、貴方の悟られた教えを
この全ての生きとし生けるものたちに
伝え教えて下さい。」
と、お釈迦様に三度も懇願され、、
お釈迦様も自分が何故この世に生まれて来た
のか、自身の宿命を理解された事と思います。
また、お釈迦様は 衆生がこの難解な教えを理
解出来るだろうか、、と思案されたと
思います。
梵天は
「過去に出現された仏は、悟られた教えを
この人間界で何度も生まれかわり
説かれてきました。」
この梵天の願いを聞き入れたお釈迦様は
私達に色々な教えを説かれました。
お経も沢山あるのは、お釈迦様が
段階を経て説かれたものであり
私達、凡夫には理解出来するには
容易いものではありません。
現代に至っても解釈が多様化し
沢山の宗派、宗祖によって保たれています。
どれを信仰すれば、救われるのか、、
何を実践すれば、生きる目的や意味が
理解できるのか、、
その答えは、、、。
次回つづく。