山下選手①

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先日、テニスの松岡修造氏と柔道王山下泰裕氏が対談されている記事を見ました。ここでは、あえて山下選手と言わせて下さい。山下選手は、車椅子姿でしたが、笑顔が戻る程回復されているご様子で、母校東海大の教壇に復帰された様です。彼は、現役時代、引退までの9年間負けなしの203連勝を達成され、ロサンゼルスオリンピックでは、金メダルを獲得など、柔道山下と言えば、今でいうドジャースの大谷選手位有名な存在でした。そんな彼が3年前、日帰り温泉の旅行先で、息子さんと温泉から出ようとした時、立ちくらみから、2mの高さから崖に落ちて首の頸椎を損傷し、下半身付随となられました。まさか、あれだけ強かった山下選手が、あんな姿になるなんて、、。実は、彼と私には、ちょっとしたエピソードがごさいまして、今回のブログは、それについてお話ししたいと思います。1984年ロサンゼルスオリンピックを控えた1年前、全日本強化合宿に、天理大学のレギュラー選手は、宮崎県にある旭化成の柔道場に帯同致しました。当時、私は大学の2回生だったと思うのですが、確かお盆の1週間前、全日本の強化選手達と汗を流しました。マスコミ各社は、山下選手がオリンピックに向けての意気込みや、仕上がり具合を写真に収め様と、彼の周りはシャッター音が鳴り止みませんでした。また、練習後は道場の片隅で、山下選手とMCがテレビ番組で対談したりと、凄い盛り上がりを見せていました。合宿も後半に差し掛かり、選手同士、疲れがピークに達していた頃、いきなり全日本代表監督から、「左利きの背の高い選手はコチラに来て欲しい、、。」と、招集され、左利きの私を含め3人の選手が、言われるがまま、Aランクの選手が集まる畳に集められました。そこには、たくさんのマスコミがカメラを山下選手に向けられていて、アイドルさながらの状況でした。代表監督が、「山下と斉藤と、練習して欲しい。特に君、手足が長いから外国人対策にピッタリだ、、。」と私の肩を掴みながら、「山下、彼と練習しなさい。」と言ったのです。あまりにも突然すぎて、山下選手と練習するなんて、、無謀過ぎる位レベルが違うと思いました。ですが、当時の私は怖いもの見たさに、内心ワクワクしていたのです。「こんなチャンスは2度と来ない。全力で山下選手の胸を借りよう。」と、意気込みました。全日本強化選手は、A・B・Cランクが有り、Aは国際大会に出る選手、Bはそれに準ずる、若しくは補欠、Cは17歳以上の将来有望選手に分けられていて、合宿では、私はBかCクラスの重量級選手と練習していました。それが、Aランクのトップ選手と練習とは、、。「はじめ、、。」と太鼓の音と共に、山下選手との練習が始まりました。私は、山下選手と意識せず、普段通りの自分の柔道に徹する事に心掛けました。左構えの彼と組んだ瞬間、意外とチカラを抜いていると思い、大内刈りを行くと見せかけて大外刈りに入りました。すると、一瞬でしたが、山下選手の体制が崩れたのです。「コレって、意外と行けるかもしれない。ヨシッ、今度は大外刈りに行くと見せかけて、内股をかけてみよう。」と思いました。マスコミは、私が山下選手に投げられる瞬間を写真に収めようとフラッシュをパチパチたきながら、その瞬間を待っていました。すると、山下選手が伝家の宝刀大外刈りを仕掛けてきました。多分、学生だと気を抜いていたと思います。上体の崩しは甘いし、無理な体制から技を掛けて来ました。私は、左手で突っ張りながら山下選手との間わいを作ると、左足を引くと見せかけ、内股の体制に入りました。すると、彼はマズイと思ったのか、一瞬元の体制に戻ろとしましたが、私は、内股から払い腰へと技を変更し、そのまま、彼の左足を払っていたのです。私は、大きな声を張り上げ「ヤァッ、、!」と、叫んでいました。彼が投げられる姿は、試合や練習でも見た事ない程、彼の身体は宙を舞っていたのです。完全なる一本でした。すると、マスコミ各社から「おゥーッ」というどよめきが起こり、総監督も苦笑いの表情を浮かべていました。周りの選手達も笑みを浮かべながら、一本と、、天井に向けて右手を上げる人もいました。その時でした。「クソッ、、。」と、気のせいかも知れませんが、低い声で山下選手が呟いた気がしました。すると、明らかに、彼の背中には試合でみせる闘魂の炎がメラメラと燃え上がっていたのです。この後、私は生涯において、経験のない柔道の怖さを知る事になるのです、、。つづく。

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