当時、急成長を遂げようとしていたお釈迦様の教団に対し、その妬みから他宗派の信者から愛弟子を撲殺されたり、お釈迦様を良く思わない組織から、お釈迦様自ら、命を脅かされた事も多々有りました。伝記には、お釈迦様はあらゆる場面でも、平静で有ったと、、それも運命で有ったと、問題を大きくしたくない理由からなのか、これがお釈迦様の教えなのか、抗議する事もなく、ただただ、見守られました。一見、素晴らしい行いの様に思いますが、現代社会においてはどうでしょうか?人間でいる限り、喜怒哀楽は付きものです。愛する人を殺されたり、自分の命を脅かされたりしたら、平静で居られるでしょうか?私は、それはあり得ない事で、時には怒り・浮かれたり・笑い・涙する、、これこそが人間の有るべき姿だと思っています。お釈迦様は生きながらにして、仏様になられました。つまり、人間の世界とは違う人なのです。例え、それが正しい導きで有っても、解決したくても解決出来ない事が有るのです。戦争、自然災害、事故等に巻き込まれて、亡くなれた家族や友人達、、その度に、神や仏も無いという人がいますが、ココは人間界で有って、神や仏の世界ではないのです。「先生は、何故ボンさんになられたのですか?」と言われれば、日頃の悪行を懺悔する為に、朝夕のお勤め、護摩供養をしていると答えます。私達は、知らず知らずのうちに、人を傷つけたり、悲しい思いをさせています。人の受け止め方は様々で有り、正しい事をしたと思っても、間違った方に取られる事も有ります。この世は、人との交わりによって生かされ、人との交わりによって、摩擦が生じ悩みが生まれて来るのです。人間界とはそういうモノと理解しなければなりません。また、罪を犯した人は、自らの人格を捨てて、自分の境遇に怯えながら生きて行く事になるのです。それは、人間界でありながら、別次元の世界で生きている人です。この世では、その様な不条理な世界の人とも向き合って行かなければ成らないのです。それだけ、この人間界を生き抜くは難しい事なのです。だから悩んでも良いんです。それが普通です。私は、お釈迦様の境地に辿り着くのは、到底難しいとは思いますが、私自身、近付ける努力しています。その中で、私が実践して、結果として現れた事がありました。それが私のお勧めする「一日懺悔」です。懺悔、文字通り、自分の行いを悔い改める事を口にする事です。懺悔こそが、気付きで有り、苦しみを取り除く良い行いだと、、私は思っています。「南無仏」と10回唱えながら、今日の一日有った事を思い浮かべて下さい。そして、最後に一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)と、唱えて下さい。つまり、私は、今日一日の全てを懺悔します。それこそが、明日への希望へと繋がる実践法だと考えます。生きている限り、私達はプラスやマイナスの状態を行き来します。自分が良い調子の頃を、思い返して下さい。それには、自分の心をゼロに戻す必要があります。そのゼロの境地こそ、私は懺悔だと思っています。今日の幸せな自分が居るのは、正に懺悔のお陰だと思っています。懺悔する事で、一瞬なりとも謙虚になり、一瞬なりとも、執着や怒りが消えるのです。そうする事で、過去の自分におさらばし、明日の自分を作り上げる様、願うのです。私達の苦しみ、悲しみ、もがき、這い上がる強さを神仏は見守られ、「さあ、頑張れ、この暗いトンネルを出るのは、後もう少しだぁ、、。」と、私達を励まして下さっているのです。私は、その影の存在(神仏・先祖)に励まされ、今日の私が有ると思っています。その存在は、時には慈悲のチカラによって、奇跡を起こし、私達を救って下さるのです。はっきり言える事は、自分をかえりみない、懺悔しない人には、仏様のお慈悲は永遠に訪れません。
